人をつなげる「コミュニティデザイン」
studio-L 山崎亮さん
株式会社studio-L代表取締役、そして京都造形芸術大学 教授および空間演出デザイン学科長である山崎亮さんは、ハコだけを扱うデザインから、人とのつながりのデザインに取り組みさまざまな領域で数多くの実績をあげていらっしゃいます。その成果は近著『コミュニティデザイン:人がつながるしくみをつくる(学芸出版社)』にぎっしりと詰まっておりますが、日本の社会問題のド真ん中を突き、それを見事にデザインで解決されている様は私たちに勇気と希望を与えてくれます。通常インタビュー内容はある程度編集してしまうのですが、山崎さんのお話しぶりもぜひ皆さんに感じて頂きたいと考えお答えいただいた内容ほぼ全文を掲載しました。では、山崎さんの授業はじまりです。
Q:生まれは愛知県ですよね。
東海市生まれです。そこから大阪に移って4年ごとに移動しています。2歳まで東海市でその後 大阪の枚方へ、それから兵庫県の西ノ宮、名古屋市の瑞穂区、愛知県の長久手町、それからまた大阪に戻って来てました。一番長く住んでるのは関西なんですが、生まれて2歳まで東海市、名古屋市や長久手町にもいたので、関西弁もそう得意ではない。愛知県でレクチャーをしていたとき学生に「愛知県生まれなら、出身は愛知県と言ってくださいよ」と言われて「よしわかった、そうしよう」ということで「愛知県出身」と言うようにしたんです。
Q:大学はなぜ農学部だったのでしょう?
農学部はですね、よく中学生ぐらいの頃にこれからは「英語」「コンピューター」「バイオテクノロジー」のこの3つが大事になると言われていたんです。自分の進路を決めるときに、それがなぜか頭にこびりついていたんですが、最初の2つは得意ではなかったんです(笑)「英語」を中学でやったけど、なんだか意味がわからない。「コンピューター」もウィンドウズよりも前なので、真っ黒い画面に白い文字でなんか書くといった感じで、ちょっと無理だなと。バイオも全然わからなかったんだけれども、バイオくらいだったら何とかなるかなと思って農学部ばっかり探していたんです。兄弟もいたので国公立大学がいいかなということと、当時は名古屋に住んでいたんですが、やはり関西に長くいたので大阪に戻りたいと思いました。大阪でバイオで農学部、それで大阪府立大学の農学部に入ったんです。
Q:在学中に「メルボルン工科大学」に留学し環境デザインを勉強されたのですよね。その時に今の仕事につながるようなきっかけがあったのですか?
もう少し具体的に言うと、農学部に入るときに学科をいろいろ見ていると「農業工学科」というのがあって、農学と工学を両方やるんだったらちょっと面白そうだなと思って、農学部と工学部の間にあるのも面白そうだということでそれを選んだんですね。ただ選んでみてわかったのが、その中にバイオはなかったんですよ…(笑)。高校生っぽいですよね(笑)。
それで改めて学科内のコースを見てみると6コースあったんです。「農業機械」はトラクターを作ったり「土地造成学」は農業の土地をどう造成するか「農業水利学」は農地の水をどう流すかといったように、全て農業系だったんです。バイオは重要だと思っていましたが、農業はその時にはあまりピンと来なくて。ただそのコースの中に「緑地計画工学」というのがあって、この緑地計画の研究室をみたら割と華やかなところだったんですね。それまで見てきたトラクターの開発だとか水をどう流すかとかではなくて、都市の緑の計画をしたり公園のデザインをしたりするんですね。デザインはここでも出来るんだと思い、迷わずそこに決めました。そして、その研究室の中から一人づつメルボルンに留学できるという制度があったので、手を上げて行ったというのが「メルボルン工科大学」留学の経緯です。
Q:(株)studio-Lをつくった独立後も緑地計画を続けられた?
独立する前は6年間設計事務所に勤務していました。ボスが設計をしていて、その方に設計を教えて頂いていました。そこはご夫婦でお仕事をされていたのですが、経営学部を出ている奥様はモノの形どうこうではなくて、空間を使う人たちのニーズを把握するマーケティングが必要だという考え方だった。その方の影響はかなり大きかったかもしれません。
その人は浅野房世さんという方です。本も出ていますよ。その方は今、大学の教授になっています。浅野さんはもともと非営利組織のマネジメントの研究をしていました。ご結婚されてからは会社の経理をしていたのですが、だんだん経理だけでなく実務にも関わるようになってきて、ワークショップをやったり、住民参加型で形を決めたり、またコーポラティブとかいろんな情報を仕入れてきて「こんな進め方もある」「こんな作り方もある」「コーポラティブの限界はここにある」などいろいろ研究をし始めて、いつの間にか旦那さんよりも発言力が増してきました(笑)。その頃に僕が入社して、最初の3年間は建築やランドスケープなどハードのデザインをボスと一緒にやっていたのですが、あとの3年間は浅野さんと一緒にソフトの仕事をしていました。そこで気づいたのは、建築業界でソフト面の仕事に取組んでいる人が少ないということだったんです。
だから僕が独立して仕事をするんだったら、ソフトに特化した事務所を作った方がいいかもしれないと思っていたんです。ただ独立したての頃はランドスケープをデザインする会社だといっていました。そうしないと何をする会社だか伝わらないので。ただ最初からstudio-Lを作った時には、ソフトの部分をやりたいと思っていましたね。
Q:「コミュニティデザイン」という本を執筆されていますが、コミュニティデザインがビジネスとして成り立つというのは最初から考えられていた?
「コミュニティデザイン」学芸出版社より好評発売中です。ボクは「こんなこと出来るんだ・・・」って感動しちゃってウルウルしながら読んでたんですが、かなりオススメの良著です! やはりソフトにはお金がつかないという考え方が一般的だったので、建築案件に絡めてソフトの仕事を作っていこうと思っていました。それで、自分に設計の依頼があった場合には必ず住民参加型で設計させてくださいと言っていました。ただ従来の住民参加型の設計プロセスというのは1回目にフィールドワークをやって、2回目にプランを作って、それをみんなにタタイてもらって最後の3回目にパチッとした模型を作って「みなさんの思いが実現しました」っていう程度のワークショップしかやらないんですよ。でも、これだと参加する人達は、ただ自分達が言いたいことを言って、それを形にされて「良かった」って終わるだけなんです。だから実際にものができても「出来たね」ぐらいにしかならない。
お金は全然合わないですが10回くらいのワークショップをやって、単に意見を聞くだけでなくその人達同士をチームにしてしまう。そしてすごく仲のいいコミュニティを1個作ってしまう。これはもともとあった自治会というコミュニティとは違って”この公園を創ることのためだけに集まったチーム”なのですが、公園が出来た後も継続してこの公園でどんな楽しいことをやるかということを考えていくんです。こうした本来、僕らが大事にしないといけないコミュニティを作っていく作業は単独ではお金にならないと思ったんですね。それで、まずは設計案件の中にそういう人達に入って来てもらえるプロセスを組み込んでいきました。
ただ設計料の中にそのソフトの部分を入れてしまうと、ほとんどそれにお金がついてこないので、まずはかなり良質なコミュニティをつくって、依頼主に対して「設計も良かったけど、出来上がったコミュニティも良かったね」と思ってもらうということを実践しました。その結果、いくつかの行政の担当者の方は「コミュニティをつくると、その後の公園の維持や管理など様々な活動をしてくれる」という価値が目に見えるようになってきて、徐々に「コミュニティを作ってくれないか」と頼まれるようになってきました。
ただ行政においては発注方式が変わらなかったので、”コミュニティを作る”ということだけにはお金がつかなくて、しばらくは設計案件に絡めてコミュニティを作って欲しいという発注だったんです。それで僕は「ものを作って、いい空間が出来てよかったという時代はもう終りつつある気がします」という事をいろんな所で言うようにしていました。そして「もう出来上がっているものがあるのだから、それをどう使いこなすのかという事が重要になるんじゃないでしょうか」というような話をするようになってから、もともとチームを作ることから一緒にやってきた担当者達は「あの感じイイネ」「確かに大事だね」というように変わってきました。そしていつの頃からか「僕たちは設計はやらないようにしていこうと思っているんですよ」と担当者の人達と話すようになってきて、その当時行政の方々の中で仲良く話せる5人位の方々には「ハードはポジティブには設計しません。ソフトだけやりたい。それで僕らは仕事として食っていこうと思っています」という話をするようになったんです。
だから、出す企画書も「ハードを設計します。そのためにソフトも考えます」ではなくて、ハードを作るっていう案件にも「ソフトだけを作ります」っていうことをどんどん出すようにして、それで発注してもらえませんか?という話をしました。